ランディ・バース!
ランディ・バース(Randy William Bass、1954年3月13日 - )は、アメリカ合衆国オクラホマ州ロートン生まれのプロ野球選手(一塁手・外野手)。右投げ左打ち。阪神タイガース在籍当時の背番号は44。2004年からオクラホマ州議会の上院議員(民主党)。身長181cm、体重95kg。
名字は正しくは「バス」と発音するが、球団親会社の阪神電鉄がバス事業を行っていることもあって、好調時に「阪神バス大爆発」、不振時に「阪神バスエンコ」「バス大渋滞」などとマスコミに揶揄されるのを嫌った球団側の配慮で、登録名を「バース」とした。多くのプロ野球ファンの間では「史上最強の助っ人」と評され、特に熱狂的な阪神ファンからは「神様・仏様・バース様」と呼ばれバースの存在は神格化されている。
アメリカメジャーリーグ時代はツインズ、ロイヤルズ、エクスポズ、パドレス、レンジャーズを転々とし、1983年に来日、阪神に入団する。メジャー時代はその長打力から「ニューヨークからロサンゼルスまで飛ばす男」と言われたこともあったが、幼少時に足を複雑骨折していたことから、全力疾走ができない状態であり、守れないと言うことでレギュラーは獲得していない。さらに速球に弱いという弱点が重なりメジャー通算本塁打は9本に終わる。ちなみにエクスポズ時代のチームメイトには、後に読売ジャイアンツで活躍するウォーレン・クロマティがいた。日本球界入りを決意したきっかけは、ツインズ時代に指導を受け、どうしても相性が悪かったテッド・ウィリアムズが、バースにとりメジャー最後の在籍球団となったレンジャーズの監督に就任したことだった。
阪神入団当初は藤田平が一塁として多用されていたこともあり、外野手としてライトを守っていたが、上記通り全力疾走できないことと藤田の年齢による衰えから、後に一塁手に固定される。体調不良でシーズン序盤を出遅れたにもかかわらず、1年目から打率.288、35本塁打、82打点と長打力を見せつける。また、同年のシーズン終盤にはチーム記録となる25試合連続安打も記録している(後に桧山進次郎に抜かれる)。豪打のイメージが強すぎるために一塁守備は下手だったかのように思われがちだが、守備範囲は狭いものの、堅実な捕球技術はむしろ名手の域であり、ファインプレーでチームのピンチを数多く救った。1985年の日本シリーズでは、対戦相手である西武ライオンズの広岡達朗監督が「阪神の弱点はバースの守備」と公言していたが、第2戦での辻発彦のスクイズを素手でつかみ、三塁走者の秋山幸二を本塁で封殺したプレーなどを目の当たりにして、その見立てを修正せざるを得なくなった。あまりの活躍ぶりに、インタビューに応じた広岡監督をして「あの怪物にはアメリカに帰ってもらいたいですね」と言わしめたほどである。
1985年には掛布雅之、岡田彰布と強力クリーンアップを形成。同年4月17日の対巨人戦でのバックスクリーン3連発はあまりにも有名である(打たれた投手は槙原寛己)。ちなみにあまり知られていないが、この一本がバースのこの年の第1号ホームランである。この年は打率.350、54本塁打、134打点の成績を残してセ・リーグ初の外国人三冠王に輝き、阪神の21年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した(ちなみに外国人初の三冠王は、パ・リーグ阪急ブレーブスでプレーしていたブーマー・ウェルズが1984年に獲得している)。華々しい活躍や三冠王という記録に隠れてしまっているが、バースは2リーグ制以降にセ・リーグで本塁打王となった初めての外国人選手でもある。
日本シリーズでは西武ライオンズとの第1戦、第2戦、第3戦で3試合連続本塁打を放つ(第1戦、第2戦での本塁打はいずれも貴重な決勝本塁打であり、特に第1戦で工藤公康から放った3ランは、初球の高めの直球を意図的に空振りし、それを見て「バースは直球を狙っている」と読んだ工藤が投じたカーブを狙い打った、クレバーかつパワフルなバースの真骨頂といえる一打であった)。また、前述の通り守備面でもファインプレーを見せるなど攻守に渡る大活躍でチームを牽引。阪神を球団創設以来初(現時点で唯一)の日本一に導き、バースはシーズンと日本シリーズの両方でMVPを獲得する快挙を達成する。
この年は、それまで王貞治の持っていたシーズン55本塁打の記録更新かと騒がれたが、54本を打った段階で残り試合数が2試合になる。くしくもその両方が巨人戦で、しかも皮肉なことに巨人の監督は王貞治。最初の試合で先発した江川卓は3打席ストライクで勝負し、1安打に抑えるも、そのほかの投手はバットの届く範囲には一球たりとも投げなかった(事実上の敬遠攻め)。結局記録達成に至らず、「世界の王」のとった行動に多くの野球ファンは首をかしげた(後にタフィ・ローズとアレックス・カブレラがこの記録に挑んだ際にも、王貞治率いる福岡ダイエーホークスが同様の措置をとり、物議をかもすこととなった)。当時、巨人に在籍した外国人投手キース・カムストックは、自らの著書でこのことを振り返り、「バースにストライクを投げると、1球につき罰金100万円が課せられていた」と述べている。翌日の読売系新聞は、「バース記録達成失敗」という見出しと、「自分はバースに敬遠を指示しなかった」という王のコメントが掲載された。ただ、王は敬遠する投手に対して正々堂々と勝負するよう指示できたのにしなかったことも事実である。
当時、最終戦を前にしたバースが「記録達成は無理だろう、私はガイジン(外人)だから」と語っていたことは印象的であった。ただ皮肉なことに、この敬遠攻めのお陰でバースの出塁率が上昇し、それまで最高出塁率でトップであった吉村禎章を抜いて、バースは最高出塁率のタイトルも獲得することになる(巨人ベンチはこの記録のことを忘れていた)。結果的に、バースは当時表彰タイトルであった最多勝利打点と併せ、打撃部門5冠のタイトルを獲得してしまった。
翌1986年のシーズンも、バースは打率.389、47本塁打、109打点の成績を挙げ、パ・リーグロッテオリオンズ(当時)の落合博満とともに、堂々の2年連続三冠王に輝く。同年以降、2007年シーズン終了現在、バースを最後に阪神から本塁打王は生まれていない。同年記録したシーズン打率.389は、現在も破られることのない不滅の日本記録である。バースは規定打席到達後、それまで張本勲が持っていたシーズン打率.383の日本記録を下回ってしまうと日本の投手がそれ以上勝負してくれないのではないかと考え、監督に直訴してそれ以降の試合を欠場させてもらうつもりでいたが、結局一度も下回ることはなく、最後まで打席に立ち続けた。
また、この年には7試合連続本塁打の日本タイ記録を達成しているが、記録となる打席は江川卓の直球を後楽園球場のライト場外に運んでのものだった(ちなみにそれまでの記録保持者はやはり王貞治)。このときは、記録を達成したバースのみならず、真っ向勝負を挑んだ江川にまで賛辞が贈られた。この年のバースはまさに記録ラッシュであり、13試合連続打点の日本記録や、シーズン最高長打率.777の日本記録と、いずれもいまだに破られていない快挙を次々に達成している。ところが、なぜかMVPは、広島東洋カープの北別府学に奪われてしまう。当時は三冠王をとった場合はMVPとの暗黙の了解があったものだが、2年連続で外国人にMVPを取らせることを不快に思った関係者が少なからずいたことが、MVPを逃した原因であると考えられている。優勝に貢献し、かつ投手三冠を獲得した北別府の受賞は妥当という意見もあったが、長い歴史の中でふりかえってみれば、これだけの成績を残してMVPを受賞してないという事実はやはり不条理に映る。いずれにしても、この年のバースはMVP受賞が当然と思わせるほどのすさまじい打棒であったことは間違いない。ちなみに、この年パ・リーグで同じく2年連続三冠王を獲得したロッテオリオンズの落合博満もMVPを獲得できず、パ・リーグを制した西武ライオンズの石毛宏典がMVPを獲得しているが、これも落合の個人主義的な言動が、外国人選手同様、記者投票で不利に働いたのではないかといわれている。
ところで、バースがこのような素晴らしい成績を残せた理由としては、彼が日本に順応しようと努力していたことが挙げられている。自己流に陥らずに対戦相手の投手の癖を細かくメモし、また同僚らと将棋を指すなど、バースは日本文化も積極的に摂取していた。そんな彼に、掛布雅之は浜風の強い甲子園対策として掛布独特の流し打ちを伝授する。これがバースのバッティングの幅を広げ、レフトスタンドにもホームランを量産するようになって、持ち前のパワーと相まって驚異的な成績を残すことになる。狭い球場やレフト方向に強い風が吹いているときには軽く流しただけでレフトスタンドへのホームランになってしまうほどであった。1985年の日本シリーズ第1、2戦などはその典型である。
他にも、長崎慶一のバッティングを徹底的に研究していた。特に川藤幸三に色々な面で世話になったことから、今でも「カワトウには感謝している」と述べている。本人の努力を川藤は後に「バースと普通の外国人選手が決定的に違うところは、彼は完全な仲間だったこと。例えば巨人をやっつけるぞと俺たちが言ったら、彼はその仲間に入り込んで、しかも先頭で引っ張っていける男だった」と述べている。また、ある特集番組では「三冠王を獲ることができたのは掛布のおかげである」と語っている。
1987年には、落合がトレードで中日ドラゴンズに移籍し、三冠王対決と騒がれたが前年から吉田義男監督との確執がエスカレートし、「面白くない仕事は早く辞めたい」と腐ってしまったため無冠に終わった。チームが低迷したこの年、雑誌のインタビューで吉田監督批判を行ったため、球団からペナルティとして罰金を科せられるという事件もあった(この罰金は最終的にうやむやになってしまい、実際には払われなかった。なおインタビューを行ったロバート・ホワイティングは責任を感じてバースに同額を支払っている)。
1988年、水頭症を患った長男の病気への対応を巡り球団と対立し、シーズン途中で解雇された。家族の疾病の際に球団が医療費を負担する契約を結んでいたにもかかわらず、球団が保険加入を怠っていたため、球団が多額の医療費を負担することを恐れたための解雇であった(後に球団側が示談金を払ったことで解決)。この経緯については、退団後に発売された自伝『バースの日記』でも述べられている。
帰国後は本業の牧場経営の傍ら、イベントなどでたびたび来日。プロ野球マスターズリーグにも大阪ロマンズの選手として登録され、かつてのライバルであった大野豊と名勝負を演じた。だが、未だ140km/hを超えるストレートに変わらぬ体系と肉体を維持し続ける大野に対しては今のところ全打席において三振を喫している。大野はバースに直球のみに対してバースもフルスイングで応えた。サントリーモルツ(モルツ球団)などCMにもいくつか出演し、また東京スター銀行大阪支店名誉支店長にも就任した。米国内では故郷のロートン市議選に出馬、見事当選し1期務めた後、2004年11月2日の大統領選と同日にオクラホマ州議会の上院議選に第32区から民主党公認で出馬。9809票を獲得し、35票の僅差で共和党のイーストン候補を破り初当選した。2006年11月には63.34%の得票率で圧勝し再選を果たしている。アメリカでは野球選手としての知名度は高くないが、地元オクラホマでは障害者へのボランティア団体や警察、消防関係者などから支持され、政治家としての手腕が高く評価されて、国政への参加を期待する声も高まっている。
阪神退団後は当時の夫人と離婚するが、後に現夫人と再婚して1児をもうける。また、幼い頃に重病を患った長男も結婚し、グッドイヤーに勤めている。また、3人の孫にも恵まれている。
日本プロ野球球団、とりわけ関西に本拠地のある球団在籍経験がある選手のご多分に漏れず、神戸牛が大好物である。アメリカ産牛肉の対日輸出問題について「日本人が牛肉にかける思い、情熱を私ほど理解している政治家はアメリカにはいない」「日本人が輸入にナーバスになる心情が良く理解できる」と語っている。阪神在籍の神戸在住時、神戸牛の味に親しんだ経験を持つバースならではの発言である。
(以上、ウィキペディアより引用)
本当にすごい外国人選手でした!
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